下が古い.上が新しい.間は他所

2014-05-04

実際のところ,四肢動物の体といえど自分の体と対応付けられるとは限らず,極端なことを言えばいわゆる障碍者の方々の感覚だって理解できるわけじゃないし,自分の体だって知らないことだらけである.だいたい,自分で自分の眼球の裏側を見たことなんてないしできる気がしない.しかし,そもそも,体の構造の対応を根拠に対象の気分やら感想やらを想定できて,しかもそれを他者である自分が想像できてしまうなんて発想自体が根本的におかしい.

四肢動物を研究してきた者として,他のタクサを研究してきた人々がその対象をどう理解しているかというのは常々疑問に思う点である.なにしろ自分はヒトで,たいていの四肢動物とは基本的な体制がほとんど同じなので,対象の体を自分の体と対応づけるという荒業ができてしまうわけである.例えば,Parasaurolophus のとさかは,いくら奇抜な姿形をしているとはいえ自分の鼻先から眉間に対応づけることができてしまうので,体性感覚として(つまり,自分の眉間に突起物を付け足したら視界がどう変わってどんな気分になれるかという意味で)気持ち悪くても,不可解というほどではない(もちろん構成形態学的な意味での疑問は多々ある).ところが,Anthocidaris の棘だの Glycine の子葉だのとかいったものは,そもそも自分の体に対応付けられないのであまりにも不可解過ぎ,そうであるがゆえにそれぞれがどれくらい変であるのか,どこを見比べればよいのかさっぱり見当がつかないわけである.気持ち悪さも,あまりに不可解でこの次の瞬間何が起こるのかさっぱり予想がつかないとか,そういう不安感に近い.