結局oanus.bsky.socialに落ち着いております.
oanus-log
下が古い.上が新しい.間は他所.
2024-11-16
2023-07-25
Twitter/Xですが,運営からの全く身に覚えのない疑義により(一時的ながらも)凍結され,またこの運営の判断に関し一切の説明が得られなかったことから,最早これは一切信頼できず利用するべきでないサービスだと判断しました.これからはnostr日本リレー上で oanus.m@iris.to として(あるいはmastodonでは @oanus@mstdn.jp として)の出没が主になると思います.もしかしたらこのlogが再興するかもしれません(が,しないかもしれません).T/Xでの13年以上分のログをどうするかは考え中.
2022-02-01
2020-04-08
2018-09-23
2017-03-05
件の論文紹介では「無いものは見つければ良い」というようなお言葉を頂き,その場ではまぁそうですねと答えつつも,いやいやそんなことはと考えていたこともあったが(たとえば2009-04-09),今の考えとしては,探したって見つかるものはバイアスのかかりまくった欠損データなんだから,そこから先の考察を少しでも進めようというのならばそのための論理をちゃんと用意しないといけませんよね,といったところ.
「古生物学って何ですか」,などと聞かれる機会もないけれど,うっかり聞かれたときには「サンプリングバイアスがかかりまくったデータをどう解釈すべきかっていう問題を考えながら実際に『化石』を解釈してみる分野」と答えようと思ってる.しかしこれもよくよく思い出してみると,D1のときのゼミの論文紹介用に欠損データ処理に関する論文を(なぜか)見つけて選んでしまった時点でなんとなく結論を出してた話のようにも思う.
2015-01-04
実のところ気になっているのは,「スコットランドには少なくとも一頭,少なくとも片面が黒っぽく見える羊のような何かがいる」から「スコットランドに少なくとも一頭、少なくとも片側が黒く見える羊がいる」への飛躍.例えば,その飛躍に,統制されたデータを扱う統計学的な考え方を流用することができるのか,といった辺り.
2014-11-02T08:11のスコットランドの羊問題について.結局古生物学者がやってるデータ処理(あえて統計とは呼ばない)というのは,「スコットランドには少なくとも片面が黒っぽい羊のような何かか少なくとも一頭いる」ので,それらの見えている部分が黒いのか,見えている部分が羊と同様なのかを詳しく確かめる,くらいの意味合いとしか解釈しようがない.
2014-11-24
Plesiosauria が何故か海竜と訳されたり海の恐竜と呼ばれたりするの,2013-02-13T20:37の話に関連して,日本の「きょうりゅう」文化の初期に某海竜の里センターみたいな事例が出てきたからなんだろうなぁ,などと考えてる.
2014-11-08
私としては,例の恐竜が好きなのか恐竜の絵が好きなのかという観点での区別するべきだろうと思っていたのだけれども,なんとなく前者がコア層,後者が初心者層に対応付けられて語られたあたりは大変興味深い.より正確に言えば,その対応付けを明示的にしていた発言というのは見てはいないのだけども,いわく入門者が目にすることができるのは恐竜の化石ではなく恐竜の復元画であり云々というくだりからして,そのように捉えられているのではないかと想像した次第.
さて,某tから始まるsns界隈で話題となったアレである(まとめはまとめで観測範囲や公開/非公開の別があるためアレである).結局,世界は初心者層,中間層,コア層の3層構造になってて,コア層は初心者にやさしくないし,コア層はトンデモを吐く初心者層が嫌いだし,初心者層から中間層に辿り着く道がわかりづらい,というどっかで聞いたような分析結果と,わざわざ真面目ぶってそんなつまらなくてダサい話をしてないでお互いを認めて仲良くやれ馬鹿という教義でまとめられた感じで,いつもどおりといえばいつもどおりの結果に終わり,今日も世界は平和であった.世の人々(というか,その中でも特に声の大きい方々)の認識がそうであったということが可視化されたという点は評価されるべきだと思う.
2014-11-02
その昔,某タクサのとある部位の寸法を網羅的に集めて統計を取ってみようと思ったことがあったのだけど,結局その統計量に一体どういう意味があるのかわかんなくなってやめてしまったという経験がある.某タクサの化石などその気になれば個人で把握できる程度の量なのだけど,しかしそうして得られたサンプルは,網羅的ではあるけれども(いわゆる化石記録の不完全性と呼ばれるアレ,もしくは化石化~採集~論文化におけるバイアスため)無作為抽出サンプルではないので,そのタクサの特徴量というよりは,せいぜいそのタクサのうち化石として残って研究されるような連中の特徴量,としか言えないのだろうなぁ,と思って足踏みしてしまったのであった.
「化石記録の不完全性」(笑)の話に至ると,必ずこの話を思い出す:
天文学者、物理学者、そして数学者がスコットランドを走る列車に乗っている。天文学者は窓の外を眺め、一頭の黒い羊が牧場に立っているのを見て、「なんと奇妙な。スコットランドの羊はみんな黒いのか」と言った。すると物理学者はそれに答えて「だから君たち天文学者はいいかげんだと馬鹿にされるんだ。正しくは『スコットランドには黒い羊が少なくとも一頭いる』だろう」と言う。しかし最後に数学者は「だから君たち物理学者はいいかげんだと馬鹿にされるんだ。正しくは『スコットランドに少なくとも一頭、少なくとも片側が黒く見える羊がいる』だ」と言った。
2014-07-06
長らくSETIというものを勘違いしてたのでメモ.要するに,電波使って通信してるように見える物体しか地球外生命体として認識できない(できるとは思えない)とする立場,ということでよろしいか.
2014-05-04
実際のところ,四肢動物の体といえど自分の体と対応付けられるとは限らず,極端なことを言えばいわゆる障碍者の方々の感覚だって理解できるわけじゃないし,自分の体だって知らないことだらけである.だいたい,自分で自分の眼球の裏側を見たことなんてないしできる気がしない.しかし,そもそも,体の構造の対応を根拠に対象の気分やら感想やらを想定できて,しかもそれを他者である自分が想像できてしまうなんて発想自体が根本的におかしい.
四肢動物を研究してきた者として,他のタクサを研究してきた人々がその対象をどう理解しているかというのは常々疑問に思う点である.なにしろ自分はヒトで,たいていの四肢動物とは基本的な体制がほとんど同じなので,対象の体を自分の体と対応づけるという荒業ができてしまうわけである.例えば,Parasaurolophus のとさかは,いくら奇抜な姿形をしているとはいえ自分の鼻先から眉間に対応づけることができてしまうので,体性感覚として(つまり,自分の眉間に突起物を付け足したら視界がどう変わってどんな気分になれるかという意味で)気持ち悪くても,不可解というほどではない(もちろん構成形態学的な意味での疑問は多々ある).ところが,Anthocidaris の棘だの Glycine の子葉だのとかいったものは,そもそも自分の体に対応付けられないのであまりにも不可解過ぎ,そうであるがゆえにそれぞれがどれくらい変であるのか,どこを見比べればよいのかさっぱり見当がつかないわけである.気持ち悪さも,あまりに不可解でこの次の瞬間何が起こるのかさっぱり予想がつかないとか,そういう不安感に近い.
2014-02-09
実際指摘されている論理的飛躍は「○○という機能が実現されていた確率が高い」と「○○という機能が実現されていた」であって,またその飛躍についてはこれまで散々自分で指摘してきてた話なので,先日のポストはナンセンス.
2014-02-07
パラダイム法でいうところの「○○という機能の性能が高い」が「○○という機能が実現されていた確率が高い」に読み替えられてしまう論理的飛躍はもう少し丁寧に詰められそうな気がしてるのだけど,単なる気のせいかもしれない.
2014-02-03
某STAP細胞関係の報道やらそれに関するコメントを見た感想.まず,メディアスクラムをやってたっぽいとか,よせばいいのにジェンダー関係の引火性の高い言葉を使ったとか,そういう問題は確実にある(が,そこにはあまり興味が無い).が,それ以外については,各メディアはそれぞれの視聴者/読者に向けた番組/記事を作ってるだけなので,論文の内容だとか科学的なプロセスなんかを紹介してるチャンネルが少ないとかいう意見は,そりゃあなたの需要とあなた以外の需要が違うだけですよチャンネル間違えてますよっていうつまらない話で一蹴されるように思える.もう少し教条的な,下世話なことばっかり喋ってるチャンネルがあること(あるいはそれが多数派であること)はけしからんていう意見もあって,そこんところの扱いについては考え中.
2013-02-13
別に,新しい説/事実を伝えようとすることがどれだけナンセンスであるか,などと言う気はない.昔は,そういう最新の科学的知見を「正しく」かつ「わかりやすく」紹介することが,陳腐な説を駆逐したり新たに科学的な思考をする人間を増やすことに役立つのではないか,などと思ったこともあった.今では,科学の道を歩むかどうかについては,周りがどうこう言おうと勝手に歩むものだろう,というくらいにしか期待していなかったりする.ただ,その勝手に科学の道を歩もうとしている人間がより簡単に巨人の肩に登れるような手伝いにはなるのではないかとは思う.
最も頻繁に目にするような,最新の論文を参照するなどという行為が想起すらされない場所にはびこる陳腐な説 (像) を駆逐できる見込みはなく,少なくともそういうものの駆逐を目指して活動してはいけない,という程度のいつもの結論しか思い浮かばないのがとても残念.
いかに古い説が廃れないかという話で常々疑問なのが,たとえば本で恐竜絶滅説なんてものが紹介される時に,なぜ便秘説だとか感染症説だとか重力増加説などといったものが枕として載せられ続けるのかという点.もちろんその意図として,おまえらド素人でも思いつきそうな話はとうの昔に棄却されてるからね,という助言であると解釈できなくはないのだが,その陳腐な話の語られ方(例として挙げられている説の数や種類,その詳しさ)を眺めていると,その文章から系統解析すらできてしまうようなデッドコピーでしかないように思える.
いまのところ論文にアクセスできていない"The posture of Tyrannosaurus rex: Why do student views lag behind the science?"に関する…というか,なぜ時代遅れの復元像がいつまでたっても廃れないのか問題について.この記事にあるように,いかに論文で新しい説が唱えられようとも,一般向けの書籍や恐竜展で新説を普及しようと努力しようとも,最も頻繁に目にするような場所,すなわち最新の論文を参照するなどという行為が想起すらされない場所において,陳腐化した復元像がコピーされ続けるから,ということでひとまず納得できる.一歩だけ話を進めて,そのコピーをたどった時にどこまで遡れるかという話になると,それは単純に一番最初の復元像というわけではなくて,一番最初に大衆向けのメディアに載った復元像ということになると思う.たとえば Mantell の iguanodon とか De La Beche の plesiosaurus とかではない,ということ.
2013-02-07
たとえば,恐竜の復元画/像というものは恐竜に関する「小難しい」研究成果を「わかりやすく」「伝える」手法として有用かもしれない,という発想は,なんだかんだで視覚依存の生活を送っている者として,全く理解できないものではないし,むしろそれほど悪いものではないとも思う.ただ私の希望として,復元画/像を作成するという行為は「統計解析においてやみくもに関数を適用するのではなく,まずはプロットして確かめてみましょう」という類の発想であってほしい,というのが率直な感想.つまり,データの型に応じてグラフの形式を選ぶように,復元像の表現に「文法」があって欲しい.