サイコロを振って1が複数回出ることを「歴史は繰り返す」と呼ぶかという問題.
下が古い.上が新しい.間は他所.
2012-03-18
2012-03-17
大半の人間が高校や大学に進学する世の中において,学校に行く代わりに仕事なり旅なりで積まれた経験は確かに稀少で素晴らしいものだとは思うのだけど,同様の理由で仕事や旅ではなく学校に通うことを選んだという経験が否定的に捉えられることにはどうにも納得がいかない(この話が藁人形論法的であるということはともかく)
2012-03-13
2012-02-27
2012-02-26
まず,他人を疑うくせに自分を疑わないとか,自分を疑うくせに他人を疑わないとか,そのアンバランスがよろしくない.もっといえば,「疑ってはいけないもの」もしくは「信じなくてはならないもの」を適切に把握できていないというのがよろしくない.ここでいう「信じなくてはならないもの」というのは,それを否定してしまっては話が破綻するという論理的な基礎(いわゆる公理)のこと.実際には,疑ってはいけないものでも信じなくてはならないものでもなく,疑ってもいいし信じなくてもいいものなのだけど,それが全く意識されていない(単に依拠しているものが何であるかを具体的に見いだせていないのではなく,依拠しているものがあることすら知らない)うちは,適切な会話は成り立たないよね,とかなんとか.
「他人を信じてはいけない」という考え方は,「他人を信じず,他人を疑い,自分を信じる」という考え方,あるいは「自分の予想は正しく,他人は嘘をつき,事実を隠している」という考え方,すなわち陰謀論と非常に親和性が高いように思われる.
本屋でアレコレ眺めた感想.「信じてはいけない」を冠する本は非常に多いが「疑ってはいけない」は無い.実際には「(他人の言説を)信じてはいけない」は「(私の言説を)信じるべきだ」もしくは「(私の言説を)疑ってはいけない」と読み替えてもよいように思える.
2012-01-31
2012-01-01
2011-11-05
いまだに階層的クラスタリングが使われる理由が理解出来ない.というか,いわゆる階層的クラスタリングは暗黙のうちに (特殊な) 階層構造が存在すると仮定しているわけで,その構造の存在を受け入れて行われる各種解析の妥当性が理解出来ない.
2011-10-11
2011-10-08
古来,骨要素の同定というのは「要素間の位置関係」に基づいて行われるということになっているようなのだけど,果たして骨要素からなるグラフの同型性にのみ基づいて形式的に定義することはできるのかという問題.
2011-10-02
まる一日ほどかけて統計とか確率の復習.思い返してみると,おそらく講義を受けたのは学部の教養科目のひとコマだけであった.しかも,その内容といえばよくある教科書に沿った,確率論に始まり様座な分布を覚えつつ検定やら推定を,という流れで,これがもう全くと言っていいほど身につかなかった.正直よく単位がもらえたものだと思う.その後,諸々研究を初めてからは統計の本も読めるようになったのだけど,その入口はどう考えても確率論やら推測統計学ではなくて,系統学や分類学,あるいはコンピュータビジョンや形態解析といったデータマイニングの側からだった.確率論の話を理解したのは間違いなく公理論的な数学というものをおぼろげながら理解した後だし,情報理論とかそっち側から入ったような気がする.もちろん,最初にわからないながら頭に詰め込んでいるからこその理解ではあるのだけど,いわゆる統計学の教科書を見ていると,その流れじゃなくてもいいんじゃね?とか思ってしまう.
2011-09-30
2011-09-23
2011-09-20
諸々の文献等において landmark-based morphometrics が outline-based morphometrics に並立するものとして書かれるのがよくわからない.実際に測られる outline というのは landmark 集合の特殊な例 (一列に並んだ landmarks) ではなかろうかと.あえて対比するならその landmarks 列を空間領域で表現するか,それとも周波数領域で表現するかというのが重要なのではないかと思う (eigenshape? よくわからん).
2011-09-16
科学的な言説を広めたい欲,もしくは科学的でない言説を撤回させたい欲,とでも申しましょうか,そういう伝言ゲームへの興味はとことん薄れてしまったなぁ,と.むしろ,どんな言説が広まっているのかを観察することだとか,広まってる言説の妥当性を考えることとか,そっち.
2011-09-15
あえていえば,世の中では命名規約におけるシノニムというものは当然ながら適切に理解されていなくて,そういう言葉がひょっこり(センセーショナルに)顔を出したとしても出世魚につけられる異名のようなものとしか理解されないということがわかった,といったところ.
最近ことあるごとに「古生物そのもの」よりも「古生物の研究というものが世の人々の世界観にどういう変化をもたらしてきたか」の方に興味があるなどと言い散らかしているような気がするけど, その分析では別に非職業研究者が職業研究者の発言を"適切"に解釈しようと"不適切"に解釈していようと全く構わなくて,職業研究者の発言が他者の考え方(物事を解釈する方法/モデル)を変えたかどうかの方が重要.もちろん,考え方の変化を捉えるためには変化の前と後を適切に認識する必要があるのだけど,別にトリトロ問題で特別新しい知見が得られたかといえばそんなことはないような気がするなぁ,というお話.
一連のトリトロ問題(DOI:10.1080/02724634.2010.483632 に端を発する Triceratops と Torosaurus の関係に関するアレコレ)について.論文に書かれている内容がどのように言い換えられて世の中に広まってゆくかという観点での分析も面白いといえば面白いのだけど,でも今回の一件は数多ある事象の一つにすぎないわけで,特別面白いというものでもない.やはりどちらかと言えば,どのようにすれば異なる個体を成長段階の異なる同一の種(個体群)として識別できるのか,どうすればそのような主張に反論できるのか,このことを論文中でどのような形式で宣言すればよいか (SYSTEMATIC PALEONTOLOGY に何を書かなくてはならないか,何を書いてはいけないか) の方に興味があるんだよなぁ,などと再認したのであった.
2011-09-01
よくあるケースとして,博物館に来るような子の中には図鑑を丸暗記している(私みたいな)嫌な子供がいるもので,そういう奴にはひとこと「なんで?」と聞き返してやるというのが私の常套手段だったりする.これまで私が関わってきたのが恐竜関係の展示だったということもあり,だいたい子供の知識というやつは復元画(笑)だとか「最大!最強!」みたいなものなので,「キミ,それ本物みたことあるの?」だとか,最強の矛を持つ肉食恐竜 vs 最強の盾を持つ草食恐竜などという文字通りの矛盾を指摘してやれば,なにかしらその子はウンウンの考えこむことになっている.それに対して,「こういうところを比べてあげればいいんじゃない?」などとヒントを言うこともあるし,それで正解 (貴様の言う「正しさ」とはなんだ,というのはさておき,極めて確からしいと言われていることとでもしておこうか) を導くことができたら「まぁそういうことだろうね」と生返事し,そもそも解答が得られない問いに対しては,「まぁわかるわけないよね」とか「なんでもかんでもわかるってもんじゃないのよ」などと煙に巻くのである.それがいいかは知らない.
ちなみに,その人が解説していたのは「この標本は何か」と答えさせるハンズオン型の展示で,彼は「さぁ,遠慮しないで触ってごらん」と導入し,それに対して子供が答えるというものであった.そして,私が残念に思ったのは,その答えが合っていれば「じゃあコレは?」,間違っていれば「正解は**でした~.じゃあコレは?」という流れをそれぞれの子供に対して繰り返していたことであった.
某博物館にて学芸員実習をしている人に「博物館の展示解説で心がけることってなにかありますか」と訊かれたのだけど,咄嗟には何も出てこなかった.ただ,その人が来館者相手に喋ってるのをしばらく見て気がついたのだけど,なんとかして展示している標本を観察させること,来館者が直前まで見ていたものや知っていそうなことと結びつけることの 2 つは非常に重要だと思った.