というか,そんな再現実験したところで,その妥当性って確かめられるのかね?という疑問.むしろ否定的見解.2009-04-07T19:40 のような意味で.
下が古い.上が新しい.間は他所.
2009-05-05
2009-05-05T02:48 の補足.単純に強度って言ってしまうのは不適切かなー.羽ばたき運動というか翼の姿勢を維持するのに必要な力に耐えるような構造が必要なわけで,つまり「骨折しやすさ」とか「脱臼しやすさ」とか「肉離れしやすさ」なんてものを定量化しないといけないような気がする.難問かもー.
個人的には「(羽軸に関し非対称な) 初列風切はあるけど羽ばたかないよ.何故って胸部の骨格が貧弱だからね!」という考えの方が解せない.もちろん,初列風切の機能なんてものを適応主義的に解釈して反論するんではなくて,「胸部の骨格が貧弱」ってところへの違和感.確かに Archaeopteryx なんかは現生鳥類に比べりゃ随分と自由度が高くて無駄が多いような気はするのだが,あのサイズの生物が羽ばたくために最低限必要な強度っていかほどのものかね?という意味で.2009-02-12T09:15 の前後の発言はその辺が動機だったりする.
2009-05-04
2009-05-03
常々人やら生物の定義の話にこだわるのは,何も大学で古生物の勉強を始めたからではなくて,実は中学受験のときの演習問題で読んだ断片的な「論説文」が影響していたりする.そんなわけで出典もなければ自分の解釈まみれの記憶なのだが,いわく,アフリカと日本の同年代の子供に動物の絵を描かせると,前者は割と写実的な絵を描くのに対し,後者はデフォルメされて,場合によっては擬人化されたものが描かれる,という話.
2009-05-02
2009-05-01
ある種の枠組みに当てはまる立場を「科学」と呼び,それに当てはまらない何かが「科学」を詐称する立場を「ニセ科学」と呼び,その詐欺行為を非難する立場を「ニセ科学批判」と呼ぶ,というところまでは分かった.問題は「科学」ってものが何かという点に若干の曖昧さが残るという点.というか,それを曖昧と呼ぶのこと自体どうなのよ?という話.つまり,「科学」ってのは「『科学以外の何か』以外」としてしか表現できないんじゃないかという主張.「差違のシステム」というか「制約プログラミング的に記述される何か」とでもいうか,そういう感覚で「科学」とか「自然」などという概念を捉えている人間にとって,「科学とは**だ」という型の定義を行うことは,論理的でない (つまり科学的ではない) 行為に見えることとなる.
2009-04-30
2009-04-29
「チューリングテスト」という考え方と「中国人の部屋」という考え方の間の齟齬みたいな.個人的にはタイプ (= クラス) を対象とすると前者,トークンを対象とすると後者,という解釈.If it walks like a duck and quacks like a duck, it must be a duck
は,あくまでも (クラス・ベースの) オブジェクト指向における発想.
一時期やたらと固執したインターフェイス指向 (というかオブジェクト指向)や型理論の話ってのも無縁ではないし,Haskell に触れてモナドって何よ,って悩んだことも,内部存在論的でもいいじゃないかという方向に向かう要因になった.同時に,圏論の話も機能主義的なところとの関連があるし,当然それは修論で機能形態学 (笑) をやったことに関係がある.あとたぶんもうひとつ,「『こうなりたくない』ではなく『こうなりたい』と思え」的ライフハックが嫌いだといつぞや語ったことも,制約プログラミング的な意味でそれほど悪くないと思っていたりする.
個人的に Uexkull の話に傾倒するようになった下地として,学部時代の教養科目として言語学関連の講義ばっかりとって Saussure の記号論的な何かとか,神尾昭雄の「情報のなわばり理論」なんかを吸収した,というのがある.もちろん,古生物系の人間として Gould の著作の影響もでかい.
2009-04-29T01:30の続き.私が環世界論に引きつけられる理由は,これが神秘主義から陰謀論,果ては虹裏世界まで,あるいは生物と非生物の関係や,科学的な態度を選ぶべき理由まで,うまいこと表現できる気がするというのがある.ま,ご都合主義の無敵理論であり,そういう意味では非科学的なんだが.
J.v. Uexkull の環世界論は,主観を重視した構成主義的なもので,つまり内部存在論的だという点は間違いないのだが,アレが生気論だとか目的論につながるという理屈がどうしても理解できない.というか,「主観的で何が悪い,目的論的で何が悪い」という開き直りと捉えるのは早計だと考えている.ポイントは生物学者としての Uexkull せんせーの態度は機能主義以外の何者でもない,というところ.つまり何を知覚しているかを反応 (作用) を見て考える,という態度.で,そこから先は,自分には内的な世界があるから他者にも内的な世界があるんだろうけど,でも見えるのは出入力だけだし,たぶん他人からは自分の内的なものなんか見えないだろうし…ってことは,出入力の対応関係のの可塑性を指して生気とか心理とか知性とか目的とかって呼んでるだけじゃねーの?という推論をしたんじゃないか,というのが個人的な解釈.そういう意味では,いつぞや語った機能主義的な心理学は成り立つ.そこからさらに,ヒトを生物の中で特別なモノと位置付けるのはやめろ,とか,知性を特別視するのはやめろ,という教訓が得られるわけで,チューリングテストやら中国人の部屋なんかの発想と極めて親和性が高い.あと,この考え方は明らかに多元主義なんだが,それは決して合意されないということでもなければ,合意したモノとしての神秘的な精神世界を必要とするわけでもなく,それこそが物質的な世界としての環境 (Umgebung) なんでないのかね?というのも非常に大きなポイント.たぶん,ここんところを指摘したのが U(ry せんせーの素晴らしいところ.要するに "構成主義 + 機能主義" は唯物論的な科学観にそれほど反しないんじゃないの?というのが結論.とんでもなく雑な考察なんで,真に受けないよーに.
2009-04-28
ニセ科学自体は論理的な破綻や精度の低い主張なのだが,科学批判やニセ科学批判偶数組は,言語の違いによるコミュニケーション不全を指摘している場合を含むような気がする.英語で喋るな,日本語で言え,みたいな.
同じ概念を別の言葉で呼んでることもあるし,別の概念を同じ言葉で呼んでることもある.科学ってのはその辺でミスを犯さないように,言葉の正しい使い方ってのを決めている.問題は,その使い方を知らない人にとっては,その使い方の正当性ってのが分からないということ.端的に言えば,そう決めたんだからそれに従う,というだけ.つまり,科学を心得ている人が (そうでないように見える人に対して) 説明しなければならないことは,単に自身の「言い換えの規則」や「文脈」を説明することではなくて,自身の言葉と相手の言葉の対応関係を探り,それを明示することだったりする.例えば「それは科学じゃない」と言い張ることではなくて「我々が科学と呼んでいるモノは,あなたが**と表現している概念のことではありませんか?」という具合の翻訳を模索する必要があるということ.そうでなければ絶対に合意は得られない.もちろんこれは,対応関係があれば,の話.それぞれの論理にしたがう矛盾探しはそれからでも遅くない.
そういう意味で「ドラえもん計画」ってのは「幻視でないことを形式的に確かめたい」という素朴な欲求だったりもする.そんなもの他人との会話で済ませりゃいいじゃん,その方がはるかに早いよ,てな説もあるが.