2chコピペのアフィブログにはそれほど心理的な抵抗はないものの,2chやtwitterでの話題をとりあげる"ニュースサイト"には,腹立たしさというか哀れみの感情すら抱いてしまうことがある.両者に共通する,他人のウェブサービスに出てきた発言をコピペしてお手軽にお金稼ぎとかそういうところは割とどうでもよくて,後者からは,おまえら世の中でこんな事起こってるんだぜ知らなかっただろ俺様が編集して見せてやるよ,といった印象を受け,それでいて周回遅れも甚だしいあたり,救いようがないなと思ってる.このネガティブな印象を受けているより根本的な論理というか前提というか,そういうのは詰めておくべきとは思うが.
下が古い.上が新しい.間は他所.
2012-11-23
2012-10-29
2012-10-09
いろいろあって,野球とサッカーをそれぞれスタジアムで観戦する機会があり,投光器のもとで活躍するプレイヤーと,それに熱狂する客というのを眺めることとなった.職業科学者とプロスポーツ選手は,ともにおよそ志を同じくするたくさんの人の中から選抜されて飯を食えてる僅かな人々という点で似ているものと言われることがある.やってること自体は非生産的(という言い方自体がアレではあるが)という点でも似てると思う.そんなこともあって,スポーツ観戦という趣味あるいはアマチュアのスポーツという趣味に対応する,科学側の趣味というのはいったいなんだろか,いったいどういう経験をしてきたどういう嗜好の人間がそういう趣味にのめり込むんだろか,職業科学者というのはプロスポーツ選手みたいな誰かの憧れの存在になるんだろか,などととりとめのない考えがよぎったのであった.まる.
2012-07-09
比喩による説明が「直感的でわかりやすい」ということも無くはないのだけど,エライ人の言った比喩を用いて理解することは決して適切な方法ではなくて,まず比喩に用いられた2つの対象についてそれぞれの周辺の論理構造を独立に理解した後,それらの論理構造の共通性を認識し,それによってエライ人による比喩のありがたみを噛み締める,というのが,おそらく正しい順序.
2012-07-05
命題を復唱することは,その命題を表現する文字列を覚えたことの表明にはなるかもしれないが,その命題を使って別の命題を導出するとかいったことがなければ,その命題を「理解」したことの表明にはならんよなぁ,などと.
2012-05-15
(2012-05-15T16:58) この曖昧な主語は実のところ「政府」を想定していたのだけど,政府ったって「大きな政府」もあれば「小さな政府」もあるわけで,要するに無意識のうちに「政府といえば大きな政府」と想定していることが露呈しただけの話.
財政難すぎて投資してる余裕がないし不採算な事業を切らなきゃいけないのは理解できるんだが,投資をやめる理由が不採算事業だからだと言われてしまうと,それなんか違うんじゃね?とか思ってしまう程度に頭が悪い.
2012-05-07
そういうわけで,スケールモデルの場合には,新作発売にあわせて模型雑誌上で実機に関する考証の特集が組まれたり,あるいは(某SWSみたいに)広告に模型と実機を比較したスナップショットを載せてみたり,実機に関する資料集を同時に発売してみたりといった具合で,よく心得た商法だなぁと感心していたのであった.とはいえ,それはつまり「ちゃんと勉強する人々」をターゲットにした商売なので,どれくらい儲かってんのかなぁと心配にもなるのであった.
2012-05-06
世の中には,実機の構造をおよそそのままに素材をプラスチックとエッチングパーツに置き換えただけくらいというような大変良くできたプラモのキットというのもあって,そういうのなんかは広告見てるだけで興奮できたりする.もちろん高い.つまり,それはお金を払えば"再現度(幾何学的な意味でのシェイプの類似度)"の高い模型を何も考えずに作れてしまうキットが手に入る,ケチれば再現度の低いキットしか手に入らない,という例のよくある話なのだけど,ではお金を払いさえすれば何も考えずに再現度の高い模型が手に入ってそれで万々歳かといえばそんなことはなくて,再現度の高さを基準に模型の良し悪し考えて値段の高さを理解して(妥協して)いる時点でそれは実機との比較を念頭に入れてるわけで,資料集めや比較に頭を使わずにはいられないわけである.
"退院"して以来,2機目のスケールモデル(航空機)を製作中.1機目はリハビリということでヒケとスキマの処理を施すのみでほぼ説明書通りに作ることに徹したのだが,2機目は持てる技術と資金をフルに投入して"セミスクラッチ"(市販のキットも流用しつつ,実質的にはプラ板やら何やらで片っ端から作る)という状況である.1機目にしても2機目にしても,実物の再現度が低いことに定評があるらしい某社のキットを選んでしまったうえに,うっかりネットで実機に関する資料を眺めて比べてしまったというのが運の尽き,といったところ.そういった資料を探しさえしなければ,そのキットはそういう「模型」として受け止められ,脳みそお花畑の幸せな生活を送れたかもしれない.
2012-04-29
2012-04-15
本屋で仏像の眺め方とかデザインの定石とかそういった類の本を立ち読みしてきた.要するに,人はモノの形や色にどういう意味を見出してしまっているのか,というか,世の中において形や色をどのように解釈するべきというルールが定められていることになっているのかとか,そのルールをどうやって見抜けばいいのかといった辺りの興味で,たぶん iconology とか iconography とかその辺の分野に相当するのだろうとと勝手に解釈しているところ.ただ,作者の意図がどうであるとか,言った言わない思った思ってないというような水掛け論に見えてしまって,どこをどう楽しめばいいのかさっぱりわからず,やっぱりどうしようもなく突き詰める気になれないのであった.
2012-03-18
2012-03-17
大半の人間が高校や大学に進学する世の中において,学校に行く代わりに仕事なり旅なりで積まれた経験は確かに稀少で素晴らしいものだとは思うのだけど,同様の理由で仕事や旅ではなく学校に通うことを選んだという経験が否定的に捉えられることにはどうにも納得がいかない(この話が藁人形論法的であるということはともかく)
2012-03-13
2012-02-27
2012-02-26
まず,他人を疑うくせに自分を疑わないとか,自分を疑うくせに他人を疑わないとか,そのアンバランスがよろしくない.もっといえば,「疑ってはいけないもの」もしくは「信じなくてはならないもの」を適切に把握できていないというのがよろしくない.ここでいう「信じなくてはならないもの」というのは,それを否定してしまっては話が破綻するという論理的な基礎(いわゆる公理)のこと.実際には,疑ってはいけないものでも信じなくてはならないものでもなく,疑ってもいいし信じなくてもいいものなのだけど,それが全く意識されていない(単に依拠しているものが何であるかを具体的に見いだせていないのではなく,依拠しているものがあることすら知らない)うちは,適切な会話は成り立たないよね,とかなんとか.
「他人を信じてはいけない」という考え方は,「他人を信じず,他人を疑い,自分を信じる」という考え方,あるいは「自分の予想は正しく,他人は嘘をつき,事実を隠している」という考え方,すなわち陰謀論と非常に親和性が高いように思われる.
本屋でアレコレ眺めた感想.「信じてはいけない」を冠する本は非常に多いが「疑ってはいけない」は無い.実際には「(他人の言説を)信じてはいけない」は「(私の言説を)信じるべきだ」もしくは「(私の言説を)疑ってはいけない」と読み替えてもよいように思える.