とりあえず今最も気になることは,無精髭の枝毛.
下が古い.上が新しい.間は他所.
2007-12-31
2007-12-30
2007-12-29
2007-12-25
2007-12-23
あるいは,想定できる限りの可能性に差 (距離) を見出せないなら,それは比べることができないので科学の対象ではない.素人が議論して科学者が議論していないかに見える対象は,だいたいこれで決まっている気がする.
科学における定説は多数決で決まったり,あるいは定説と呼ばれるものに拘泥していたりするものと思われているらしい.前者については逆で,多数決で事実を決めるというよりは,事実に対し多数が応答するというべきで,理由と結論が逆だったりする.後者について,科学者は想像力が乏しいなどと批判されることがあるが的外れで,たくさんある可能性から,確率が著しく低いものを切り捨てて語っているだけだったりする.つまり想像力は確かに必要なのだが,想像した可能性に大小関係をつける能力があるかないか,というのが科学的な人とそうで無い人の違いなのだろう.
2007-12-22
正直なところ,ここでグダグダ書いたところで別に気晴らしだし,別に何か新しいことを言っているわけでもなくて,単に自分の足りない語彙力で言い換えているだけなのだが,一応そんなことを見聞きして現時点では自分なりに納得していますよ,という意思表示という意味で.
自分に都合のいい話しか引用しないという件については用心しなければならない.これは科学においても似非科学においても同じで,要するに全てを説明するから信じているのであって,そうでなければ信じていない.相手にとって不利だと思われる事例は,実は全然不利ではないものを誤解している可能性がある.公理系が違ったりするが故の解釈の違いかもしれない.科学者は,同じものを違う呼び名で語っている可能性,そもそも公理系が違うという可能性までをも考えて語るが,たぶん,似非科学者にはそれができていない.科学者は,公理系が違うなら双方無矛盾でかつ同時に同じものを説明できる可能性を知っているし,その気になれば違う公理系に乗り換えることができ,そこでは別の世界の理論が通じないことも判っている.そういう意味では,科学では疑似科学の妥当さを否定できないし,疑似科学と呼ばれているものも,その理屈がわかってさえしまえば実はマトモな体系なのではないかと薄々思っているのだと思う.科学者が気に入らないのは,似非科学者が似非科学の論理で科学に干渉することである.逆に言えば,今の科学者が似非科学を撲滅できないのは,似非科学を論破するために科学の論法をつかっているため,相手と会話が成立しないためだろう.ただ,科学者は自分の使っている論理を正しく説明できる(適切な言葉で定義している)のに対し,似非科学者はそれができていない.つまり,科学者側からすれば,科学は自分の使っている論理の妥当さを他者も見聞きできる形式で提示しており,それが否定されるならばいつでも今の理論を捨てる用意があるのに対し,相手は,それをしていないが故に信用しないと言っているだけなのだ.
科学の良いところは認識の誤りを誤りと認め,より確からしいものを選択できる点だと思う.しかし,おそらくそこが誤解される理由で,つまり科学は間違うことがあるもの,将来覆されうるもの,故に信じなくてもよいもの,信じてはいけないもの,とされてしまう.
で,結局なんだったかというと,どちらかといえば私は「ググレカス」という呪詛にやられてる人なので,他人に聞くのが苦手だし,それゆえ無駄に自力で解決しようと試み,時間を浪費してるんだよなー,というコト.
頼らずに何とかできてしまった人間にとって他人に頼るような人間はカス扱いだし,そうじゃない人間にとっては教えてくれない人はただのヒドイ人扱いだし.科学の話もそうで,諸々の経験によって科学的思考を身につけた人間にとっては科学的思考のできない人は,単に経験がないか本質的にそれが理解的ない馬鹿かのどちらかで,そうじゃない人にとって,やっぱり科学者は頭でっかちの無駄金遣いだったりする.そりゃー放っておいて歩み寄れるではないな.
んー,訂正しなきゃいけない箇所あり.決して後発の人間は程度が低いから話なんかしたくねーよ,という意味ではない.むしろ喋りたい気持ちの方が強い.そりゃー,一日でも先んじていれば案内人のフリができるような厨二病であったりもするけど,科学っぽい発想で考えて発言してくれる人に当たると幸せになれるとか,まぁ,ありきたりな肯定だけど,概してそうじゃない人に当たった経験が多いよなぁ,という意味.
また話の筋を見失ってしまったけど,ありていに言ってしまえば,話したいことはたくさんあるけど適当な場が見当たらないということ.たいてい話したい相手というのは,自分と同じかちょっと詳しい人,否定もされるけど納得ができるくらいの人,同じレベルゆえに無駄に共感を覚えてしまう人,という極めてずうずうしい要求だったりする.そして,科学をちょっとかじっている人間にとって,ちょっと上の人はいきなり科学者で口が裂けても不用意な発言はできず,ちょっと下はいきなり一般人で全く話が通じないか前提を話すためのコストがかかりすぎるという,やはりなんか書いてて傲慢な気はするが,そういう話.
実際,科学は真偽だけを扱い,好き嫌いだとか善悪とか美だとか幸せだとか,そういうものは相手にしない.だからこそ幸せだとか美徳だとか,そういうものを教える宗教とは何の問題もなく共存できる.ところが宗教は全部を扱おうとする.そして,全部扱えるから宗教の方が正しい,とかいう謎な解釈により,科学は嫌われる.
なんだかんだ言って,科学に関わる者は,物事の真偽については決して思い込みで語ってはならないというコトを叩き込まれる.たぶんそこのところが,一般人と話したくなくなる理由のような気がする.
なにをグダグダ言ってるかというと,つまりマジメに科学に関わった人間ほど安直な発言なんてものはできなくなって,一般人(K子氏のいうところの第一,第二段階)とは埋めようのない溝が出来上がるんだろうなぁ,という話.科学をやってる人間にとっては,あまりにナンセンスすぎて話にならないネタを,一般人は何も臆することなく大真面目に「議論」してくれる.そして終いにゃ,科学は宗教だと言い捨てられる.そりゃ話もしたくなくなるわな.じゃ,研究者同士じゃどうかといえば,己のアイデアが全てなので妙に牽制し合ってみたり.そりゃー社会不適合者が生まれないわけがない.
(妙なところで切ってしまったけど)その古脊椎ネットに入っていた人の大半は,単に恐竜が好きとかちょっと詳しいとかそういうレベルじゃなくて,マジメに研究している人間,あるいはしようとしてた人間だったりするわけです.で,何かというと,そういうMLで高度な議論があるわけでもなく,むしろ機能不全であるという話.大学に入ってしまえば,わざわざネットで聞くまでもなく研究室内で完結してしまうんだから,当然といえば当然.で,しばらくは業績もなく論文を投稿するのに必死になるし,それ以外の場所で不用意で不確実な情報に基づく発言なんかするわけもなく黙る.要するにそういうことなんだと思う.
たぶん探せば見つかるだろうけど,その昔,古脊椎動物ネットワークというのがあって,大学で古脊椎動物学を研究しよう,マジメに科学しようという人々が集まって情報交換をしようとしていたわけです.MLはまだ存在しているものの,過去形.
あのスレでは何かが肯定的に語られることはないのだが,問題は的外れな批判と本質的な批判が同居して,しかも双方とも感情混じりで語られるために,素人には同じに見えてしまうってトコなんだよなぁ.
だいなそうえもんスレを読むと,やっぱり教科書的な何かを書かなきゃいけないんだと思ってしまう.それも,分類群ごとの各論とか,個々の研究事例だとかいうくっだらなーいことじゃなくて,勘違いを解決したり,あるいは近視眼的なところを補正したりとか,そういうもの.
2007-12-12
2007-12-11
某いんふぉしぃくのメールを放置していたら,軽く6000件ものスパムが溜まっていてゲンナリ.つーかスパムフィルタを実装する気とか,ないんだろーなー.登録したキーワードやらアドレスで振り分けとか,この期に及んで意味無いってわからんのかねぇ.
2007-12-10
修論初稿から.復元という作業は,要するに推論であり,不確かさを抱えるものである.しかし,不確かさが存在するという理由で考えることを一切止めることは,妥当とは考え難い.何が確かで何が不確かか,どの問題に解ける見込みがあってどの問題は解き得ないのかを明らかにすること,それを明らかにできることの方が重要であり,そして適切な実験により復元像をより尤もらしいものへと向上できるというのが,本論文の趣旨である.
某教官の言動に対する回答だったりする.厨二病だなぁ.
2007-12-09
2007-12-06
2007-12-03
話は戻って,科学とはなんぞや.ガキンチョに科学を教えるってのはどういうことか.スケールが大きすぎたり複雑すぎたりしてよくわかんない現象が,身近なとこで体験できる現象と同じルールで説明できるというところだと思う.単に身近な現象を説明するだけでは「こっくりさん」でしかない.
結局,脳内のモノを垂れ流す前に本を読めって話で,「爬虫類の進化」によれば,筋で腔を伸縮させて内圧を変えるそうな.ワニなんかもそうですな.というか,いまだにそこんとこが解せないんだけど,要するに筋やら臓器やらってのは体積変化するのな?
となると,やはりカメの肺が潰れるか否かというのは非常に興味深い.さらにいえば,太い肋と腹肋骨で体幹を強化しているかに見える動物は,いったい何をどうしようというのかという疑問.つまり個々の骨要素が変形しにくいことよりも,胸郭全体としてどれだけ変形するかが重要になってくる.
例えば,カメを沈めたとき,甲羅のおかげで外形はほとんど変形せずに沈むはずで,この場合,肺は収縮するようには思えない (もっとも,どうやって吸気してるのか知らないのだが).あるいは,人が沈んだときも,水圧で肺が潰れるとすれば,潰れた分だけ腹部が潰れていてくれなければ辻褄が合わないような気がする.
恐竜のミイラ化石を X 線 CT にかけたら筋肉量がわかったんですと (未投稿なのでニュース記事).で,歩行速度を出してチュランノサウルスより速いだのなんだの.歩く動物では Gray のパラドクスみたいなことは起こらんのか?
2007-12-02
未確認飛行物体という言葉は存在するし,多くの人間が未確認飛行物体を見ているけど,それぞれが指す物体が同一でなければ,それが存在しているとは説得できないだろうという話.電子なんか誰も見たことないけど,電子が存在するという規則を導入することで,他の物体の振る舞いを説明できることが重要.別に電子は妖精さんでもちっちゃいオジサンでもいいけど,その割には随分と規則的 (あるいは完全なランダム).ウチのストーブはマイナスイオンを吐くらしいけど,どうやったら検出できるんだか.
少なくとも,今の公理系が定式化されるために長い経験が必要だったのは間違いないが,それは数学が経験則であることを意味しないこと,個々の恣意的規則に違いがあることは間違いないが,コトバを交わし数学的に定義することでそれら規則の間の写像を作りうること,この2点は譲れない.
あと,数学は経験則で,0, 1, 2, ... という概念も人それぞれならば,そもそも人間,というか自分にしか通用しない認知論的な産物だから本質ではない,などと言ってしまう人間とは仲良くなれる気がしない.
で,缶ビール一本分のアルコールで喧嘩まがいの何か.遺伝子型による分類と表現型による分類が一致しないこと,つまり,ある個体を見てそれを何に分類するかに違いが現れることには異存はないが,同じ個体を見ていることに疑いをもつことには同意しかねる.